2022-05-31
21世紀の現在、日本と世界はどのようになっていくのでしょうか。
日本史、世界史という歴史のとらえ方だけでなく、地球史、宗教史、哲学史、医学史、音楽史、美術史、まだまだ多くの「歴史」という視点でものごとを見ることができます。「生活史」も「歴史」であり、対人援助においては重要な見方であり、「その人」を知る手がかりになります。ラテン語やギリシャ語では「歴史」と「物語」は同じ語源(historia)であり、「探求」も同じ語源です。(「語源」というと誤解しやすいですが本来の語義であり、英語が別の言葉にしたといわれています。)時空を超えた真理やできごとのつながりを探究していくことの意味がわかると思います。
ところで、地球の歴史46億年を1年の縮尺にすると、人類のルーツとなる猿人が誕生してからまだ1日どころか、14時間程経った頃(700万年前)といわれています。そして、現生人類が農耕牧畜などを始めてから1分経った程度です。
地球史上、瞬きする間に、人間はさまざまなことを行い、あたかも地球の支配者として振る舞ってきましたが、地球史はそれを呑み込んで悠然と構えているのかも知れませんし、新たな「支配者」ではなく「管理者」を待っているのかも知れません。
人類暦17世紀に登場した「近代哲学」の思想は人間の「理性」により真理を探究しようとしました。もっとも、その始まりのルネ・デカルトはカトリック信仰に根ざしており、「神の存在証明」を理性によって説明しようとしました。これは、「神学」と「哲学」の関係の歴史を知ることで理解を深めることができます。
「信仰と理性は調和する」として13世紀にスコラ哲学を体系化したトマス・アクィナス(シチリア王国・ドミニコ会)の時代の後、14世紀のスコラ哲学者のウィリアム・オッカム(イングランド王国・フランシスコ会)は信仰の純粋性を保つために「理性」と「神学」を分離し、「理性(哲学)」は信仰の領域に立ち入らないとしました。16世紀になるとヴィッテンベルクの大学教授であったマルティン・ルター(神聖ローマ帝国ザクセン選帝候領・聖アウグスチノ修道会)はオッカムの理論をさらにすすめ、信仰(神学)と理性(哲学)を完全に分離した考え方を示しました。(宗教改革としてよくいわれる「95箇条の論題」はドミニコ会神学者との論争の論題を告知したもので、特別なものではありませんでした。)その後、ルターの意に反してカトリック教会を破門になり、時代の流れは彼を「プロテスタント」のヒーローにしていきました。
デカルトはフランス王アンリ4世が設立したイエズス会の学校でスコラ哲学だけでなく、自然学、数学、物理学などにも好奇心を深めていきます。ガリレオ・ガリレイの地動説が異端審問される頃には「宇宙論(世界論)」「方法序説」と深め、哲学を形而上学(普遍的な原理について理性・思惟によって認識する)の根に自然学の幹と種々の学問の枝という「哲学の原理」としてさらに体系化していきます。
しかし、「理性」はデカルトが探求したものとは別の方向へと走っていき、人間が地球のあらゆることだけでなく、宇宙をも含めて支配できるものと錯覚していく時代を生みだしていくことになりました。
日本ではいつのまにか工学系・理学系技術が「科学」と思われるようになり、「科学」こそが万能であると信じている人々が増えていきましたが、結局は「科学」を信仰の対象にしているにしか過ぎないのではないでしょうか。「技術」は「理性」ではありませんし、「理性」が地球を含めた全宇宙を解明しているものでもありません。人類史をとおして明らかになってきたことは「理性」で真理を探究しようとすることであり、それは未だ到達し得ていないのです。
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